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(18)一髪逆転

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 清掃の時間の後、帰りの会が終わって子ども達と「さようなら」をした城田は、本日行った国語の単元テストの採点を終えてから職員室に戻った。するとそれを待ち構えていたように菅原政子教頭が、
 「ああ城田先生、校長先生がお呼びです。校長室へどうぞ」
 と言った。城田は首を傾げたが、言われるまま校長室の扉を叩いた。
 「ああ城田先生どうぞどうそ」と、いつものようにニコニコ顔の烏山校長は、手招きで彼をソファに座らせた。
 「コーヒーでいいですか?もっともコーヒーしかありませんが」
 校長は自らカップにコーヒーを注ぐと城田の前に置き、その対面に腰をおろした。
 「実はさきほど高橋先生が私のところに来ましてね、あなた、十段円塔の1300人の協力者を集めたそうですね。いやぁ、たいしたものです、なかなかできるもんじゃありません」
 校長の言葉に、城田は「やはりそのことか」と、嫌な予感を感じながら烏山を見つめた。
 「その情熱は高く評価しますが、人数を集めたからといって成功する保障などありません。どうでしょう、今日は城田先生がそこまで十段円塔にこだわる理由を、ひとつ教えてはもらえませんか?なぜそんなに十段円塔を立てたいのかを?」
 城田は少し考えた後、校長から目をそらして、
 「そこに山があるからです」
 と、ぼそっと答えた。
 「子ども達は登山家ではありませんよ」
 「でも挑戦者です」
 「その挑戦はあなたがふっかけたものではありませんか?」
 「私が縁となったかもしれませんが、子ども達は自分たちの意思で、すでに頂上めざして山を登り始めました―――」
 そのとき校長室のドアがコンコンとノックされると、心配そうな表情で「同席してもよろしいですか?」と、高橋先生が姿を現した。烏山は「どうぞ」と言って自分の横に座らせた。よほど気になっているとみえる。校長はかまわず続けた。
 「子ども達のことは分かりました。でもそれは、あなたの本心ではありませんね?」
 城田は校長に秘め事は通用しないと観念し、先日夢で見たあの悪夢の出来事を話しはじめた。
 「十一年前、私には友人がおりました。大悟という名の、同じ教育に携わっていた無二の親友です―――」
 そして彼との出会い、教師となってからの再会、一緒に教育を語り合った日々、そして彼が十段円塔に挑戦したこと、そして今はもういないこと―――、話すうちに城田の両目からとめどなく涙がこぼれ出した。
 「確か十年くらい前でしたね。県内の小学校で―――組体操の練習中、大きな事故が起きたことは私も知っています。でもそれが十段円塔を立てようとしてた時の事故だったなんて知りませんでした。そうでしたか―――その指導をしていたのが城田先生のお友達だったのですね……」
 烏山は同情の涙を潤ませて、つぶやくようにそう言った。城田は続けた。
 「あの事故は、私にも大きな責任があるのです。危険と分かっていながら彼をとめられなかった―――」
 「それならなぜ? しかも今になって急に―――?」
 今度は高橋先生が口を挟んだ。
 「ぼくにも分かりません……」
 と、城田は嘘をついた。そこに春子との再会があったことはどうしても言えなかった。
 「要するに弔い合戦というわけですね―――」
 高橋先生は納得したようにソファに背を横たえた。しばらくは無言の時間が経過したが、やがて烏山校長は意を決して校長判断を下した。
 「城田先生、思いはよく分かりました。しかし失敗のリスクの方が高い危険なことを、学校として認めるわけにはいきません。わかって頂けますね?」
 「失敗はしません!」
 城田は怒声を発して膝を叩いた。
 「なぜそんなことが言えるのですか!」
 いい加減堪忍袋の緒が切れた高橋先生も怒鳴り返した。話の内容から烏山校長も、城田が自分の我≠フために教育の現場を利用していると判断するしかなかった。
 「城田先生!あなたがそこまで言う、十段円塔を成功させる自信の根拠はいったい何ですか?」
 そんなものはあるはずがなかった。しかし城田は、
 「空で大悟が見守っているからです!」
 と、それは間髪を入れぬ即答だった。
 烏山校長は「はっ!」として、目の前のコーヒーが冷めていくのを見るともなしに見つめた。長年教育の現場に従事し、培ってきた己の教育理念の根幹に、何か大切なものを忘れていたことを気付かされた気がしたのである。彼は教育技術も身に着け要領も覚え、あらゆる場面でどう対処すれば良いかも知っていた。しかしそれは、体験から得た知恵と、溢れる情報から抽出した知識と、人類が信じてやまない科学絶対思想と人類が経験から学んだ規範の上に成り立つ社会の常識をベースにしていた。しかしかつて人間は、目に見えない超自然的なものと常に隣り合わせにいたはずなのだ。ところが目に見えない超自然的なものは、これまで教育を論ずる上であまり対象にされてこなかった現実が確かにあると思った。もちろん目に見えないものの中には道徳とか心といったものもあるが、それはあくまで人間関係における領域で、その人間自体を取り巻いている見えないもの、そう、宗教的なるもの≠ヨの畏敬と畏怖の念の欠落こそ、今の教育に最も欠けていることではないか―――と、烏山は思った。宗教的なるもの≠捨てた現代の日本人は傲慢になり過ぎた。そのあげく、自然を破壊し、戦争をくり返し、災害を生んできたのだ。城田が「死んだ人間が見守っている」と言ったその心は、宗教的なるものへの畏敬であり、まさに教育者として不可欠な資質ではないか―――と気付いたのだった。
 だが烏山はすぐに自分の考えを撤回した。ならばなにも十段円塔をもって実現しようとしなくとも、他の教育単元でも様々に方法はあるはずだ。烏山がそれを口にする前に、高橋先生が厳しい口調でつっぱねた。
 「君もわからない人だねえ!死んだ人間がどうやって守ってくれるというのだい?要は怪我人が出た時の責任の問題なんだよ。君が教師を辞めたくらいじゃおさまりがつかないのだよ!」
 「だから失敗はしません!」
 「まあまあ、お二人とも―――。すっかりコーヒーが冷めてしまいましたよ……」
 校長は立ち上がってコーヒーを入れ直した。
 「城田先生、あなたもご存知と思いますが、今の学校は様々な制限に縛られてがんじがらめです。文部科学省からはああしなさい、こうしなさいと通達が来るし、県や郡市からは様々な要請や調査依頼や注意事項が舞い込む。先生方はそれらをこなすだけでめいっぱいでしょ?そのうえ親御さんたちからはうちの子がああだこうだと文句を言われ、それでいて、ひとたび問題が起こったが最後、マスコミが寄ってたかって騒ぎ立てる。教育現場は逃げ場のないまるで地獄です。悲しい話ですが、私達教師の理想なんてそれらの前にはまるで無力だとは思いませんか。それが現実です―――」
 「が、しかし―――!」と言った城田を押さえ込んで、烏山は大声を挙げた。
 「しかしもかしこもありません!これは校長命令です!」
 そんな激しい言葉を発した校長は、かつて誰も見たことがない。城田は悔し涙をこらえて奥歯を噛んだ。
 無言の校長室に、グランドで遊ぶ子ども達の声が聞こえる。やがて、
 「話しは終わりましたね。私はこれで……」
 と高橋先生は校長室を出て行った。しかし城田は、まるで銅像にでもなってしまったかのように全く動かなかった。
 「まっ、そんなに気を落とさないで―――コーヒーでも飲んで……」
 烏山はソファを立つとデスクに座り、自分の業務を始めた。城田はずっと動かなかった。
 しばらくして、
 「ああ、もう始まっていますね」
 と、烏山校長は独り言のように言って校長室のテレビをつけた。
 「STBニュース―――うちの美人アナウンサーが登場しますよ。時間が空いた時たまに見るのです。実は私ねえ、周防さんの隠れファンなんですよ。一緒に彼女を説得する言葉でも考えましょう―――」
 と言った時である。
 『では次のニュースです』
 周防アナの美声と同時に、まるでフリーズでもしてしまったかのように校長の動きが止まった。
 『いよいよ運動会シーズンですね。須坂市の蛍ヶ丘小学校では、五、六年生の児童が中心となって組体操の練習が始まりました』
 『組体操ですか。私も小学生の頃、一生懸命取り組んだ思い出があります』と男性アナウンサー。
 『そうですね。組体操といえば倒立やV字バランス、あるいは何段かのピラミッドを思い出す方も多いと思いますが、今年この蛍ヶ丘小学校で挑戦するのがなんと十段円塔なんです!』
 『十段円塔!? いったいどれくらいの高さになるのでしょうか?』
 『気になりますね。取材に行って来ましたのでご覧ください』
 テレビ画面には蛍ヶ丘小学校の校門が映し出された。そして画面は体育館内で練習する4年生の映像に変わった。そこへ周防アナが出て来て『円塔の頂点に立つ女の子にお話を聞いてみたいと思います』と言って瑠璃にマイクが向けられた。
 『練習はどうですか?』
 『とても楽しいです。グランドに立つ十段円塔のことを思い浮かべると胸がワクワクします』
 『てっぺんは怖くないの?』
 『まだ立ったことがないので分かりませんが、周りが見渡せてとっても気持ちがいいと思います』
 『意気込みを聞かせてください』
 『十段円塔はわたし一人ではできません。みんなが力を合わせて心を一つにしなければいけません。そのために私達は毎日練習しています。一生懸命がんばりますので、応援よろしくお願いします!』
 『先生にもお話を聞いてみましょう。まだ世界でも成功例がないと言われる十段円塔ですが、子ども達の様子はどうですか?』
 城田が画面に映し出され、下に6学年学年主任城田兵悟教諭≠ニいうテロップが出た。
 『子ども達はやる気満々です。むしろ指導する私達の方が引っ張られています。とにかく結束しかありません!』
 烏山校長は開いた口がふさがらない。そしてこの次にあったはずの桜田のインタビューはカットされていたが、画面はスタジオに戻って『本当に楽しみですね』と周防アナが繋いだ。
 『心がひとつになるといいですね。怪我のないように頑張ってくださーい』と男性アナ。
 そして極めつけが次の周防アナの言葉だった。
 『STBではこの取り組みの様子を特別番組で放送する予定です―――では次のニュースです』
 「し、城田先生……、こ、これはいったいどういうことでしょう?」
 「さぁ……っ?」
 と、次の瞬間から学校の電話がひっきりなしに鳴りだした。その内容はすべて今のテレビ放送に関する問い合わせと応援のメッセージで、
 「城田先生、お電話です!」
 と替わってみれば蛍ヶ丘区長からである。
 「先生、テレビ見ましたよ!今うちにもじゃんじゃん電話がかかって来ましてね、ぜひ協力させてくれって既に50人以上集まりましたよ。まだまだ集まりますよ!期待して待っていてください!」
 すかさずケータイにも音無PTA会長から電話があった。
 「城田先生スゴイじゃないですか!テレビ見ましたよ!いまシラセンジャーの出欠を確認したら、ほとんどが出席になってました!夫婦二人で協力してもいいかという問い合わせもありましてね、この調子でいけば、学校はじまって以来の快挙、PTA全員参加の大運動会ですよ!」
 その他の電話もことごとく住民からの期待の声である。こうなった以上、校長も後に引くことができなくなった。かといって危険を冒すこともできない。烏山は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
 「城田先生、私はあなたの教育理念が間違っているとは思いません。むしろ正しいと思いました。でもひとつだけ聞かせてください。あなたはこの挑戦に、命を捨てる覚悟があるのですか?」
 城田はきっぱり答えた。
 「無論、最初からそのつもりです!」
 「あなたって人は……どうやら生まれてくる時代を間違えたみたいですね―――あなたみたいな人は、幕末にでも生まれて吉田松陰の弟子にでもなれば良かったのですよ」
 それは烏山校長の精一杯の皮肉だったが、彼は密かに辞表をしたためる覚悟を決めた。
 「わかりました、もうお好きになさい!」
 城田は大声で「はい!」と答えた。
 「ただし、できるところまでですよ!無理は絶対にいけません!」
 「肝に銘じます」
 「あ〜ぁ、定年まで校長を務めるつもりでしたが、あなたのおかげで人生計画が狂ってしまいましたよ」
 「そんなことにはなりません!必ず成功しますから!」
 ため息をつく校長をしり目に、城田は、もはや諦めなければならない状況が一瞬にして一転してしまった事実に、
 大悟がやれと言っている―――あいつが動いたのだ―――
 と、目に見えない友の存在を強く感じた。